映画『国宝』を観て、歌舞伎と寺院の「継ぐ」という世界を考えた

つぶやき(コラム)

今日、映画『国宝』を観てきました。
正直、事前に何かを深く考えていたわけではなく、「なんとなく見てみたくなった」「時間があったから」「芸というものに触れてみたくなった」という、わりと軽い気持ちでした。

「国宝」入場者プレゼント

けれど、観終わって、頭の中にずっと残っていたのは、物語そのものよりも
「歌舞伎という世界の、世襲の重さ」でした。


歌舞伎の世界は、やはり世襲が強い

映画を通して感じたのは、歌舞伎という世界が、想像以上に「家」によって成り立っているということでした。

血筋、名前、看板。
努力や才能だけではどうにもならない部分が、確かに存在する世界。

もちろん、それがあるからこそ守られてきた芸があり、文化があり、重みがあるのだと思います。
ただ一方で、

「生まれた瞬間から、もう役割が決まっている」

その重さは、相当なものだろうとも感じました。


なぜか、寺院のことを思い出した

映画を観ながら、ふと、頭に浮かびました。
それが 寺院 です。

自分は寺の家系に生まれています。
とはいえ、いわゆる「修行僧」として育ったわけでもなく、
積極的に寺を継ぐ人生を歩んできたわけでもありません。

だからこそ、歌舞伎と寺を重ねるなんて、
「いやいや、全然違うやろ(笑)」
と、自分でもツッコミたくなる部分があります。


正直、全然違う世界だと思うが世襲制は、守るための仕組みでもあった

歌舞伎は芸の世界です。
舞台に立ち、観客に見られ、評価される世界。

そもそも、歌舞伎の世界が世襲制を色濃く残してきたのには、
芸を「家」で守ってきたという歴史的な背景があると言われています。
名前や型、技が、師弟関係だけでなく血縁によって受け継がれてきたからこそ、
今に残っている芸も多いのだと思います。

一方で、寺院の世界も、
・信仰
・法事
・地域との関わり
・生活に寄り添う役割

どちらかといえば「目立たない」「裏方」のような存在です。
かつては「家」と「地域」を単位に信仰や役割を継承してきました。
世襲制という言葉だけを見ると強く聞こえますが、
それは同時に、生活と信仰を守るための仕組みでもあったのだろうと感じます。

芸を磨く世界と、祈りを続ける世界。
同じに語るのは、乱暴かもしれませんね。


それでも、似ていると感じてしまった理由

それでも、どうしても重なって見えた部分がありました。

それは、
「生まれた家によって、周囲から期待される役割がある」
という点です。

寺院の家に生まれると、
「いつか継ぐの?」
「跡取りは?」
という言葉が、特別な場面でなくても、自然と飛んできます。

本人の気持ちとは関係なく、
“そうなる前提”で話が進んでいく感覚。

これは、歌舞伎の世界とも、どこか通じるものがある気がしました。


継ぐ人だけが大変なわけじゃない

映画を観ていて、そして自分の経験を重ねて思ったのは、

継ぐ人だけが苦しいわけではない、ということです。

・継がない選択をした人
・期待から距離を取った人
・「申し訳なさ」を抱え続ける人

こういう立場のしんどさも、あまり表に出てこないだけで、確かに存在します。

「やらない自由」があるようで、
実は、心のどこかで縛られ続けている。


選べる時代になったからこそ、迷いも増えた

昔に比べれば、
・必ず継がなければならない
・家のために生きるしかない

そんな時代ではなくなりました。

それは、確実に良いことだと思います。

でも同時に、
選べるからこそ、迷う
選ばなかった理由を、何度も自分に問い直す
そんな時代にもなった気がします。


映画を観て、自分の立ち位置を考えた

映画『国宝』を観て、
「歌舞伎とはこういう世界だ」と理解した、というよりも、

自分自身の立ち位置を、
少し離れた場所から見直すきっかけをもらった、
そんな感覚でした。

継ぐ人も、継がない人も、
どちらが正しいわけでもなく、
ただ、それぞれに重さがある。


おわりに

この映画を観て、
何か明確な答えが出たわけではありません。

ただ、
「違う世界だと思っていたものが、ふと重なって見える瞬間がある」
そんな感覚を、大事にしたいと思いました。

終活や宗教、家のことを考えるとき、
こうした感情は、案外多くの人が抱えているのかもしれません。

今日はそんなことを、映画の後に考えていました。

また、予告を見て、目黒蓮さん主演の『ほどなく、お別れの時間です』がとてつもなく気になります。
今日、お葬式や終活について、どこか、つながりを感じたひとときでもありました。

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